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Washi+Performing Arts? Project vol.6 
演出・振付 鈴木竜×音楽 棚川寛子

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コンテンポラリーダンス界で注目を集める振付家・ダンサーの鈴木竜と、舞台音楽家として世界を舞台に活躍する棚川寛子がタッグを組み、「土佐和紙」をテーマにした新しい舞台芸術作品の創造に挑みます。

2021年9月24日(金)・25日(土) 土佐市複合文化施設 つなーで ブルーホールにて上演しました。

出演 鈴木竜、井上貴子、植田崇幸、黒木佳奈、鈴木真理子、福盛進也

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鈴木竜     振付家/ダンサー

DaBYアソシエイトコレオグラファー

横浜に生まれ、山梨・和歌山・東京で育ち、英国ランベール・スクールで学ぶ。ダンサーとしてアクラム・カーン、シディ・ラルビ・シェルカウイ、フィリップ・デュクフレ、平山素子、近藤良平、小㞍健太、夏木マリなど国内外の作家による作品に出演。振付家としても多数の作品を発表しており、国内外で上演されている。神楽坂セッションハウスより第3回セッションベスト賞を受賞。横浜ダンスコレクション2017コンペティションⅠでは、「若手振付家のためのフランス大使館賞」、「MASDANZA賞」、「シビウ国際演劇祭賞」を史上初のトリプル受賞するなど、大きな注目と期待を集めている若手振付家である。

棚川寛子 舞台音楽家

演劇作品の音楽を作曲し、劇中で演奏する俳優への指導も併せて行う。

フランスアヴィニョン演劇祭正式招聘作品として静岡県舞台芸術センター(SPAC)制作2014年「マハーバーラタ」、2017年「アンティゴネ」の音楽を担当。2017年、歌舞伎座での新作歌舞伎 尾上菊之助主演『極付印度伝マハーバーラタ戦記』の音楽を担当。2018年、フランス・コリーヌ国立劇場がシーズン開幕作を日本の劇団SPACへ委嘱した「Révélation 顕れ」の音楽を担当。他には小中学校、特別支援学校、児童養護施設等に於けるワークショップや、ポータブルな本格演劇「テーブルシアター」でも活動を続けている。しかし本人は正規の音楽教育を受けておらず、謂わばこの分野でのアウトサイダーアーティストとも言える稀有な存在である。

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Director's Note

演出・振付 鈴木竜

土佐和紙とは、一体なんなのでしょうか? 

 

土佐和紙について学び、その深みを知れば知るほど、私には土佐和紙がわからなくなっていきます。確かに世間から土佐和紙と呼ばれている物体は存在するのですが、私にはそこに土佐和紙の本質を見出すことができないのです。 

 

私は、土佐和紙とはひとつの生命なのではないかと考えています。 

 

鴨長明は「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。」と方丈記で書いています。流れる川は絶えることがありませんが、そこを流れる水は常に新しいものです。土佐和紙の営みも同じように時代を超えて綿々と受け継がれ、そこに関わる自然や人はとどまることなく変化し続けています。この1000年に渡る歴史の連続性と、製紙業に関わる様々な仕事に従事する人々による紙漉きの営みは、まるで新陳代謝を繰り返してその生命を維持する生き物のように私には感じられるのです。この生命性に、土佐和紙の本質は宿るのではないかと私は考えます。 

 

私たちが土佐和紙と呼んでいるのは物質的な紙そのものではなく、それを生み出す土佐の自然、人、技術などで構成される紙漉きの営みの総体のことなのではないでしょうか。この土佐和紙の営みをダンス・音楽・テキストなど、身体を媒体とした様々な表現手法により生命体として舞台上に現出させ、土佐和紙の本質を問うことが今回のクリエーションを通して私が試みたいことであります。 

 

『いとなむ』は、土佐和紙という生命のまだ誰も見たことのない新たな姿です。

「1000年のいとなみから生まれた音に、新たな生命を吹き込む身体」

河野桃子

 

 舞台中央に、どっしりと異彩を放つ存在感。鉄製の長テーブルよりも一回り大きな台(和紙の乾燥機)があり、それがギァイイイイイイと軋む音を立てて回転する。その回転に押し出されてダンサーの鈴木竜がゆっくりと転がってくる。まるで闇の中から、得体の知れない生命が生まれ出てきたみたいに。

​ 不穏かつ美しい始まりであった『いとなむ』は、Washi+にとっても、演出・振付・出演の鈴木竜にとっても、これまでの積み重ねの結実となる公演だった。鈴木は2016年に、Washi+にて『風の強い日に』の演出・振付をおこなっている。その頃は力が入っていた。おそらく土佐和紙という1000年以上続く伝統工芸への気負いや、振付家としての経験の浅さがあったのだろう。その力みは真摯ではあったけれど、限られた視点からのみ眼差す頑なさもあった。しかし5年を経た今回の公演では、構成の緻密さと丁寧さは変わらず、関わるさまざまなものを受け入れることによって多層的な作品となっていた。たとえばそれは、土地・伝統・生活・ダンスなど長い時間をかけて人々が繋いできたもの、共演者など身の周りの人達、長きに渡り土佐に流々と流れ続ける川……それらをあるがまま受け、繋ぎ、さらに舞台芸術の力によって息を吹き込むことで、新たな生命として形づくられたような舞台だった。

​ 冒頭、雄大な時の流れを感じさせる時間が終わり、蛍光灯が点く。どこかの工場だろうか。乾燥機は作業台に見え、そこに3人のパフォーマーが金属製のお椀を並べていく。流れ作業のように淡々と。金属と金属のぶつかる音がガンガンと響く。規則的な音は重なり合い、美しい機械音の輪唱になっていく。まるで和紙工場での日々の作業が、いくつもいくつも積み重なっていく光景だ。きっともう1000年以上、この作業は行われている。

​ 作中には、3人の語り部が登場する。月を掴もうとする男の落語(植田崇幸)。「老眼が進んできたんだよね」と舞台上で演奏するドラマー(福盛進也)と会話する俳優(井上貴子)。東京から田舎へ引っ越した女の思い出話(鈴木真理子)。3人いずれも、身近な生活の話題から、死や時間など大きな概念の話へと広がっていく。日々の営みは、大きな流れのほんの一部なのだ。

 語り・ダンス・音楽。いくつもの表現が入り混じるなか、ほとんどのシーンで鈴木が踊っている。いつの時代のなんの話題のどんな状況でも、鈴木は踊っている。その身体は、何代にもわたり繰り返されてきた和紙作りの化身のように、また、丈夫な土佐和紙には欠かせない清流・仁淀川のように、1000年以上も続く「いとなみ」の間ずっとそこにある。

 

 鈴木の身体とともに、日々のいとなみと1000年のいとなみを重ねていくのが、音楽だ。実際に和紙工場にあるいくつかの備品を楽器として使用し、さまざまな高さの金属音が重なっていく。おそらく和紙工場では日常的に聞こえる音がいくつかあるのだろう。それは時に機械的な淡々とした作業をイメージさせる。また時に慌しく打ち鳴らし、繁忙期の忙しさや、時代とともに仕事が無くなっていく焦燥感を煽る音にも聞こえる。遠い1000年前の景色が浮かんでくるような音が鳴り響いている。

 今回の作品では、この鈴木竜(演出・振付)×棚川寛子(音楽)のタッグが大きな出会いだ。もし鈴木の身体だけであれば物質的すぎたかもしれず、棚川の音楽だけであれば抽象的すぎたかもしれない。両方があってこそ、日々の作業と、1000年も繰り返される時間が繋がっていると実感する。そしてそれらを、福盛進也のドラムが結び目としてきゅっと締めていく。

​ もうひとつの大きな役割が、白い衣装だ(デザイン:露口亜美、縫製:惠美尚子)。和紙にも見えるけれど、オレンジ色の照明を浴びると柔らかな川や光にも見える。一人ずつ踊れば、和紙になる前に水にさらされる原料(※煮熟されたコウゾなどの植物)かと思えるし、チリ(原料に含まれるキズや異物など)かとも思える。いつしか白い和紙のような服が、パフォーマーの肌と一体化してくる。和紙とは人間のことだろうか。クライマックス、これまで和紙作りといういとなみを繋ぎ続けてきたたくさんの人の声と身体が重なり、いとなみそのものの叫びとなる。そこに残る白い塊は、和紙/人間の残りかすなのか、純度の高い宝石なのか、わからないほど神聖で美しくどこか悲しい。

​ 時は過ぎ、人も組織も伝統もなにもかも老いていく。しかし今もまだ誰かが和紙工場で、乾燥機を回し続けている。1000年の時間のなかで土佐和紙に関わるたくさんのものが大きなうねりとなり、新たな生命として舞台の上で息づいていた。

 

 

 「より冷たい水の方が、丈夫で綺麗な和紙ができる」と和紙職人の方が言っていた。今にも凍りそうな水に、何度も何度も素手をつけ、和紙を作る。そうした土佐和紙づくりは、山に覆われた高知で自然にうまれ、育ってきたものだ。過疎化が進み、後継者が減り、和紙の需要がなくなってきても、このいとなみはまだ行われている。「明日どうなるかはわからないけれど、今日は続ける」という積み重ねだったとしても、今もずっと続いている。そうして生きながらえてきた土佐和紙を「ひとつの生命」だととらえ、鈴木は本作を作った。

 

 この伝統を今後も続けていくのか。土佐和紙の生命を繋いでいくのか。

 

 Washi+の活動は「明日どうなるかはわからないけれど、明日も続けられるように努めよう」という、意図的ないとなみだと思う。2015年に“舞台芸術を活用して土佐和紙の魅力をより広く多くの方に届ける”という目的で始まり7年。県外・海外のいろんな地域からアーティストを呼び寄せ、数週間の滞在中にともに和紙を作り、土佐和紙農家などにリサーチをおこなった。それがアーティストの血肉となり、たとえば鈴木にとっては「土地や人とともに作品を作る」ことの地盤のひとつとなっているのではないか。意思を持って「いとなもう」とする時、新たな生命がうまれる。その生命がアーティストとともに育っていく様子を肌で感じた作品でもあった。

​<<当日パンフレットへの寄稿文>>

「いとなみ」のなかの舞台芸術

 

高知大学教授 田中求

 

 土佐和紙は約1100年の歴史を持つ。その特徴は、様々な原料や漉き方、道具から生み出される和紙の多様性と、地域の中に大きな原料産地を持っていることであろう。主な原料は、コウゾ、ミツマタのほか、ガンピやアサなどの樹皮の中に含まれる靭皮繊維であるが、コウゾについては繊維の細さや太さ、樹皮の色や光沢、枝の出方などの特徴が異なるものが7種以上ある。明治以降、高知は日本一のコウゾ生産量であるのみでなく、原料の特徴に応じて多様な紙を漉き続けてきた。

 コウゾは、良く照り、雨が多く、水はけのよい斜面を好むため、高知の気候風土にも合っている。水質日本一で知られる仁淀川や四万十川など多くの清流にも恵まれた高知県内の各地に、約20軒の手漉き和紙の工房があるほか、機械漉きの大きな工房もある。

 高知では、昭和30年代までは各地で焼き畑が行われており、ミツマタやソバ、ムギやアワ、ヒエなどが栽培されてきた。山には棚田が広がり、その畔や斜面の畑でコウゾは栽培された。コウゾとミツマタは山村の最も重要な冬の収入源であった。収穫したコウゾやミツマタの枝を蒸して、樹皮を剥ぎ、乾燥させる作業などの多くは、近隣の農家が手伝いあうユイ(土佐弁でイイ)で行われた。土佐和紙は、高知の山村でのいとなみや人のつながりのなかで生まれてきたのである。

 しかしながら、近年は多くの地域で紙漉き工房が消え、原料の生産農家も激減している。それは、自然とつながり、人とつながり、技や道具、畑を受け継いできた、土佐和紙のなかにあるいとなみが失われようとしていることに他ならない。このいとなみを誰がどのようにして受け継いでいくのか、またそこにどのような意味や価値があるのか、それを探る試みの一つとして、舞台芸術がある。

 全国の和紙産地を訪れ、紙漉き工房や農家で話を聞き、一緒に作業して得た知見を本や論文、学会発表、講演などで伝えることを試みてきたものの、表現しきれないものは多い。雪が残る山畑でコウゾの株間を鍬打ちする90歳近い農家の背中、どこか誇らしげにコウゾの皮を乾かしているときの目尻、もうあんな苦労はしたくないといいつつも、まだ朝暗いうちからランプを下げて山のコウゾ畑に上がっていった頃の話を楽しそうに話す口元、明け方に夜這いから戻ると、ちょうどいいときに来たとコウゾの蒸し剥ぎを手伝わせられて眠くてたまらざったと笑って揺らす肩も、研究者として発表してきた媒体では、表現できなかった。

 舞台芸術は、私が表現できなかった土佐和紙の営みに関わる人たちの葛藤、積み重ねてきた思い、たくさんの汗や涙が刻まれた顔の皺や歪んだ爪、何十年も毎年枝を伸ばし続けてきたコウゾ、畑に吹く風、照る光、降る雨、散る葉も積もる土も、自らの身体と命で受け止める。そして生まれてくる衝動を踊りで、音楽で、舞台全体で表現する。この試みは、人と自然が織りなすいとなみの中にある、忘れられ、見失いかけた大事なものに気付くきっかけを与えてくれるのではないだろうか。

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主催 高知県立美術館、Washi+、La forêt、公益社団法人全国公立文化施設協会

共催 土佐市教育委員会

企画制作 Washi+、La forêt

協力 尾崎製紙所、尾﨑伸安、田中求(高知大学教授)、鹿敷製紙株式会社、(株)四国わがみ、いの町立神谷小中学校、高知県立紙産業技術センター

後援 高知県教育委員会、いの町紙の博物館、(社)高知県製紙工業会、高知県​手すき和紙協同組合​

 

舞台監督 出口裕家(有)イグジットオーガニゼイション

照明 中嶋敏雄(株)四国舞台テレビ照明

音響 佐藤こうじ(Sugar Sound)

宣伝写真 深田名江

記録映像 志和樹果

記録写真 釣井泰輔

 

統括プロデューサー 浜田あゆみ

 

制作 山浦日紗子

制作補佐 辰己ゆり 


 

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